2018年06月30日

練馬区の救急情報キット

先日開いたチャイハナ座談会「介活を考える」
そこで知ったことがあります。
練馬区の「救急情報キット」
冷蔵庫に入れておく、透明な円筒です。
中に入れる書類セットの指示があります。
1. 救急情報(かかりつけ医や持病、薬の内容などを記入)
2. 写真(本人の確認ができるもの)
3. 健康保険証の写し
4. かかりつけ医の診察券の写し
5. 普段飲んでいる、お薬の説明書の写し
これがあれば、いざというとき救急搬送と治療がスムーズにいく、という仕掛けです。
感心しました。
でも、いまは用意したキットがすべてなくなって「配れません」とのこと。
ちょっと残念です。

わたしの「介活」理論では、快活A(予防)から介活B(介護状態)に至る境界が介活C。
介活Bの「質」を決めるという維持で、決定的に重要です。
練馬区の「救急情報キット」は、その介活Cに迫る試みです。
「なくなった」などいってほしくないですね?
でも、です。
チャイハナ光が丘としていうなら、もっとベターな介活Cを考案したい――そんなことを考えています。
その節は、どうかよろしく。
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2016年07月24日

ラダックの旅(11) ジャンムー・カシミール州@

ラダックは、インドの北西端「ジャンムー・カシミール州」の一部です。
 この州についての説明をしておきたい、と思います。
 国とは何か? 国境とは、どういうものか? 戦争と平和とは、どのようなことか?
「中華人民共和国」とは、どのような国であるか?
 ――いまアジアの核心ともいえるさまざま問題が、ジャンムー・カシミール州の歴史の中に凝縮しているように思えます。
まるで何もかも、かつてこの州であったこと。まるでデシャブです。
ただ、わたしたちは、ここでかつてあったことを(わざとかどうか)見ないようにしていました。
なぜ、ここに現代の諸紛争の原型があるか?
国境地帯だからです。
それは、インドとパキスタン、そしてまた、インドと中国が、かつて領土をめぐって戦争をした現場です。そしてまた、いまもそれら3国の「軍」が向き合う紛争の現場です。それらの紛争の背景に、中国のチベット解放(侵略)と占領という思い事実があります。
それはインドの北端に位置し、ヒマラヤ山脈やカラコラム山脈の一部が走っています。面積約22万平方キロ、人口は100万人余りです。yjimage[1].jpg
近年の歴史を、簡単に見ておくと――
英植民地時代は、藩王国として、イギリスの間接統治を受けていました。
1947年、インドとパキスタンが別々に独立します。
この藩王国が、インドとパキスタンのどちらにつくか?
藩王は、名前から考えて、シーク教徒でした。でも、インド編入ではなく、「ジャンムー・カシミール国」としての独立を望んでいたといいます。
しかし、住民のほぼ7割は、イスラム教徒です。まさに英領インドがインドとパキスタンに分裂した理由なのですが、ジンナーの指導を受け入れたイスラム教徒たちはパキスタンへの帰属を求めて立ち上がります。藩王やインドの側から見れば、暴動です。
鎮圧に、藩王の要請を受けたインド軍が出動します。すると、パキスタン軍も出動します。
第1次印パ戦争の勃発です。1947年10月でした。
1947年8月の両国の独立の直後のことです。
国連の仲介で停戦が成立したのは、48年12月です。
ジャンムー・カシミールは、軍事境界線を挟んで、インドとパキスタンがそれぞれ実効支配する二つの地域に分断されました。ladakhimage2411[1].jpg
戦争は、これで終わりません。
先の第1次印パ戦争から15年後のことです。
もう一つの国境紛争が起こります。今度は、中国とインドの戦い、中印国境戦争です。
posted by Yoshimura_F at 14:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年08月06日

瀬田国民学校の生徒たちの日記が本になりました。

『1944-1945年 少女たちの学級日誌 瀬田国民学校五年智組』(偕成社)

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「チューリップの花がきれいに咲いていた。いかにもニッコリニッコリわらって咲いているようであった」太平洋戦争のさなか、琵琶湖のほとり。戦争という混乱の時代に、文化がないなら文化をつくろうと考えた教師の発案ではじまった学級日誌がありました。そして、この学校の校長は「総合教育」「土に親しむ教育」に一生懸命でした。 ふしぎな明るさを放つこの日誌には、鮮やかな色彩の絵とともに、毎日の学校生活がゆたかな筆致で語られています。しかし、戦況が厳しくなるにつれ、少女たちの言葉にも好戦的なものが増えていきます。「敵米英をたたきつぶしてしまえ」子どもたちの暮らしやこころの中にまで、じわじわと侵食していく「戦争」のすがたが、彼女たちの目をとおして浮かびあがってきます。 戦時中の5年生の女子生徒たちが1年間描き続けた、188枚の学級日誌全記録。その貴重な記録である日誌は「どこにでもあった戦争」を現代につたえます。戦時についての解説付。オールカラーの大型本です。

『戦争の時代の子どもたち――瀬田国民学校五年智組の学級日誌より』(岩波ジュニア新書)

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この本に紹介する学級日誌は,太平洋戦争末期(1944年3月〜1945年4月)にかかれたものです.書き手は,瀬田国民学校(滋賀県)に通う5年智組(当時)の少女たちです.
戦局が日に日に悪化していくなかで,国民生活も逼迫した状況であったことは,みなさんもご存知の通りです.大都市を中心に空襲も激しくなり,本来,学業優先であるはずの子どもたちの生活も激変していきます.限られた空間の記録ではありますが,当時の様子がリアルタイムで綴られているという点では歴史的史料としても面白く,同時に戦争が子どもたちの日常にどのように入り込んでいたのかが,さまざまな行事や出来事の中から子どもたちの心情とともに読み取ることができます.
それにしても逼迫した状況下に生きながら,学校生活を色彩豊かに,しかも子どもらしいのびやかさと素直さで綴っている点には非常に驚かされます.あの抑圧された時代のものとは思えません.色彩や文章にでている自然を観察する力,感じる力,そして表現する力は,戦争という現実だけには染まらない感受性が子どもたちの中にあることを示してくれています.それらが,どのようにして育まれてきたのかも,本書では言及しています.あの時代を別の視点から見る手がかりに,きっとなることでしょう.
(編集部 山下真智子)

posted by Yoshimura_F at 17:43| Comment(359) | TrackBack(0) | 日記